タンザニア:アル‐シャとモシ
2018年11月09日
空港の出発ターミナル入口でセキュリティーチェックを受け、その先に、チェックインカウンターが現れた。
エアータンザニアのお昼の便の機体は、200名以上収容できるB787のためか、チェックインカウンターの多くは、エアータンザニア用であった。
なぜか、私を飛ばして後ろの人を案内する係員を不思議に思っていると、私の後ろの白人が、その係員へ、私の順が優先されるべきであると告げた。(多謝)
おかげで、めでたく、チェックインカウンターへ進むことができた。
にこやかなグラウンドスタッフから、手提げかばんの中に機内持ち込み禁止品があるかをしつこく尋ねられたので、きっぱりと「ありません」と答えた。
通路側の席をリクエストすると、足元が広い10Gの席の搭乗券を渡された。(多謝)
搭乗待合スペースは、1階と2階があり、その中央は吹き抜けであった。
こちらは1階。
更に地下1階は便所、2階にはムスリムのためのお祈りの部屋があった。
2階にはほとんど人がおらず、冷房がついていないためか、もわっとした空気が漂っており、少し暑く感じた。
窓からは、遠くで、激しい上昇気流が引き起こすトルネードが発生しているのが見えた。
搭乗待合スペースが、乗客で満席となったころ、フェーストジェットのB737クラスの機体が着陸し、駐機場へのろのろと進んだ。
つづいてエアータンザニアのB787が着陸した。両機体を比較すると、B787は格段に大きく、威厳さえ感じられた。
なお、B787は出発1時間前にキリマンジャロ国際空港に到着したことから、ムワンザから来たものと思われる。
機内は、行と同じく、ほぼ満席で、すでに多くの乗客は着席し、空気が少し淀んでいた。やはり、経由便であったのであろう。
なぜか、私の席に赤ん坊を抱えた女性が座っていたので、同じ列の窓際の席に腰を掛けた。
しばらくすると、その席の搭乗券を持った体の大きな男性が現れたので、私の席に座っている女性に指定された席へ行くように、CAを通して依頼した。
その女性は、苦笑いをし、荷物を棚から取り出し、機内後ろへ歩いて行った。
出発予定時刻より5分早く離陸した。
窓から、2日間放浪したタンザニア北部の乾季の大地と山々が見えた。
安定飛行に入ると、行のフライトと同じくまたもや、おつまみとスナックが運ばれた。ただし、スナックは、前回のケーキとは異なり、カシュナッツである。
カシュナッツは食中毒を悪化させる恐れがあるので、自宅へ持ち帰ることとし、昨夜から全く水分を取っていないことを思い出したので、体にジュースを染みわたらせた。
シートベルト着用のサインが出て、しばらくすると窓の外に、建物が多く見え始め、その数は増えていった。
うとうとしていると、何かと接触するような軽い振動が機内に発生し、その後、地面を移動しているような振動が続き、機体は連絡通路に横付けされた。
連絡通路から、ターミナルに入り、延々とターミナル内の通路を歩かされ、出口で手荷物をX線装置に通した。
ターミナルの到着ゲートを潜り、外に出ると、乾季ではあるが、ダルエスサラームの少し湿った空気がまとわりついた。
(完)
その後:
スマートフォンでUberを呼んでいる最中に、バックパックを背負ったアジア系の若い女性が、国内線ターミナルへ行く方法を、エアポートタクシーのとりまとめ役に訊ねていた。ちなみに、彼女は、タクシーしかないと言われ、運賃は10ドルとのこと。その女性は、他に方法はないか、ターミナル出口にいた係員に尋ねていた。
空港から自宅までは利用したUberは、今回も800円程とエアポートタクシーの半分の運賃。
また、食中毒のためか、旅の間は暴飲暴食をしたにも関わらず、体重が出発の時よりも、1.5キロ程落ちていた。ちゃん、ちゃん。
<支出(2泊3日)>
合計 US$230.92
1 交通費:US$143.08
航空券往復 US$76.90
自宅、空港往復Uber US$14.91
キリマンジャロ空港、モシタクシ(Hot spring 経由)US$50.00
モシ、アルーシャバス US$0.88
アルーシャ、キリマンジャロ空港シャトルバス US$4.39
2 宿泊費:US56.48
The secret garden US$26.97
Rich Hotel US29.51
3 食費:US$25.43
モシ昼食 US$3.95
モシカフェ US1.75
モシ夕食 US$3.51
アルーシャ昼食 US$8.77
アルーシャカフェ US$1.75, US$1.31
アルーシャ夕食 US$4.39
4 その他:US$5.93
水 US$0.44
博物館 US$US1.10
Hot spring US$4.39
2018年11月08日
ホテルに戻り、窓の外を見ると、人々が1日の活動を終え、落ち着きを取り戻しつつある街が見えた。
皆、家で家族団欒のひと時を過ごしているのであろう。
毛布を被り、枕に頭を置こうとすると、いつの間にやら、枕カバーが真っ白い染みの無いものに変わっているのを発見した。そういえば、バスタオルも留守の間にセットされていた。
電気を消して目を閉じると、残すところは、翌日6時半から始まる朝食のみとなった。
ところが・・・
なにやら胸やけを感じ、目が覚めた。部屋は真っ暗で、携帯を見ると深夜2時である。嫌な予感がした。
これは、翌朝8時頃から始まる、嘔吐と下痢の食中毒の前触れであった。
思い返してみると、いつもの数倍の量のお食事をし、そのうえ、大量の飲み物で胃液を薄めてしまっている。
これでは、消化できず、胃の中で食べものが消化されないばかりか、腐ることとなる。まさしく、食中毒の症状である。
この様な事を考えていると、お腹が痛くなり、更に胸やけが酷くなってきた。
バスルームに駆け込み、用を足していると最初は普通のうんこであったが、そのうちペースト状となり、ついには水状となり、一定のリズムでお腹が痛くなるようになった。
と同時に、嘔吐感も高まったが、嘔吐を我慢できないほどでもなかった。
しかし、ここで出すべきものを出さないと、胃の中のものの腐敗は酷くなり嘔吐が長引き、翌日、飛行機に乗れなくなる可能性があるので、すぐに嘔吐することした。
初めは、少ししか、食べ物を吐き出せなかったが、そのうち夕食の真っ赤なチキンが勢いよく出るようになった。
こんな状態が続き、胃の中にほとんど食べ物がないにも関わらず、ついには、胃痙攣が始まり胃液まで出るようになった。
この時、辛いセケラチキンを吐き出すのは不味くて苦痛なので、やはり、ジンベイサメに出会う旅のように、甘いフルーツをたくさん食べて吐き出したほうが楽であると、どうでもよいことを考えていた。
このようなことを1時間程続け、深夜3時前に再び床に就いた。
朝目が覚めると、お腹の痛みは少なくなっており、胸やけも収まっていた。
やはり、昨夜の判断が正しく、何とか下痢や嘔吐に悩まされず、空港まで行けそうであった。
陽が昇る前の街は、人通りこそ少ないが、車の通る音や人々の話し声などが多くなり、少しずつ賑やかになっていた。
起床してからベットルームとバスルームを数回往復し、食中毒は完全には治っていないので朝食をとらず、チェックアウトをした。
チェックアウトの時、フロントの女性は、私のこの苦境を知っていたのか、私へ気の毒そうな眼を向けた。
早朝の街は清々しい。歩けば歩くほど、腹痛と嘔吐感がそぎ落とされていく気がした。
20分も歩くとエアータンザニアのオフィスに到着した。すでに、空港行のマイクロバスが駐車していた。
出発までは30分以上ありバスの中には誰もいなかったが、シートには荷物が無造作に置かれていた。アルーシャは、ダルエスサラームより治安が良いのであろう。
バスの近くに立っていたが、近くにいた係員に促されて、エアータンザニアのオフィスの中で待たせてもらうこととした。
出発時間が近づくにつれ人が集まりだしたのでオフィスを出て、バスの中で待つこととした。
安全で景色がよく見えるドライバーの後ろの窓際の席に座った。そして、私の隣に、ビジネスバックをもった親父が座った。
彼はアルーシャから45キロ離れた所に住んでおり、これからダルエスサラームで行われる会議に出席するとのこと。
出発時刻10分前になると、ほぼ満席ととなり、予定時刻になると空港へ向けて出発した。
バスは、途中、1泊165ドル程する高級ホテルでお客さんを乗せ(そんな高いホテルに宿泊できるなら、タクシーで空港へ行けと言いたい)、その後、空港まで寄り道をせずに疾走した。
バスは、まっすぐな道を順調に飛ばし、途中、交通警察が多く見られたが、彼らに停められることはなく、1時間程で、キリマンジャロ国際空港に到着した。
つづく
2018年11月07日
アルーシャでもナイトレストランがあり、そこでチキンセケラ&チップスが食べられるとの情報を得た。
しかも、サラダがとり放題とのことだ。
そのナイトレストランは、Khan’s BBQ。
日中は車関係のお仕事をしているようであるが、日が暮れるとナイトレストランに変わる。
場所は、宿泊しているホテルの隣の通りで、徒歩5分もかからない。
お店は道路の両側にある歩道を使っており、店の前の歩道では、グリルでお肉が焼かれたり、サラダが置かれたりしており、もう片方の歩道では、お食事用の席が並べられていた。
どちらも照明が眩しいくらいに輝いており、その中をお持ち帰りする人がひっきりなしに訪れ、この通りは、この場所のみが昼間の様だ。
まだレストランは営業を開始したばかりのはずであるが、東洋系3人、スーツを着てネクタイを締めた横に大きい白人男性1人、タンザニア人カップル1組、インド系タンザニア人1人がすでにお食事をしていた。
とり放題のサラダバーに近いこともあり、タンザニア人カップルと相席をした。(テーブルは8人用)
まずは、サラダバーへ行った。写真を撮っていたのを気が付かれ、お店のオーナーから名刺を渡され、サラダは手前から、普通、少し辛い、とても辛いとの説明があった。
辛くないキャベツ、キュウリ、ニンジン、お豆のサラダをお皿にのせ、自分の席に運んだ。
すると間もなく、チップスにうずもれたセケラチキンが、大皿にのせられて運ばれた。
チキンはハーフサイズであるため、量が多く、とても満足いく夕食となった。
しかし、これが悲劇の幕開けとなるのです。
つづく
2018年11月06日
アルーシャでは、白人をよく見かけ、その影響のためか、カフェがあちらこちらにある。
しかも、結構おしゃれで、カフェの本場であるフランスの影響を受けたダカールよりも、それらのカフェは華やかさがあった。
しかし、オシャレなところは白人プライスで高く、お茶をする気が起きず、そこでタンザニア人のお客さんがお茶をしているお値打ちなカフェを探した。
旧市街地にありメインロードに面したカフェDolly’s patisserie。フレッシュジュースの看板が歩道に面してあり、入りやすい雰囲気だ。
室内はpatisserieとの名のとおり、お店の半分のスペースには、陳列ケースとその中にケーキがあり、更にパンも売られていた。
残りの半分のスペースはカフェで、地元の親父達が何やら楽しげにお話をしていた。
おしゃべりをしている女性の隣の席に座りメニューをみた。チキンビリヤニが450円と、いつも食べるダルエスサラームの食堂の1割から2割ほど高い。
このアルーシャは、ダルエスサラームよりも全体的に物価が高いかもしれない。
注文を取りに来たウエイトレスに200円のマンゴージュースを頼むと、お店の奥からミキサーの音がした。
グラスに小さな氷と共に入れられた100%果汁のマンゴージュースであったが、甘みが少し足らなかった。
夕食後、立ち寄ったカフェはMc Moody’s Eatery。大通りに面したお店は闇の中、煌々と輝いていた。
天井が高い店内は、空間を上手に使った造りとなっており、オブジェとしてらせん階段が中央付近にあった。
また、店内の隅に一段高くなっている場所があり、その場所をぐるっと囲んだ手摺が、プライベート感を醸し出していた。
壁にはバックライトに照らされたマサイ族の親子と平原の絵があり、真っ赤に照らされた夕焼けのサバンナを彷彿とさせた。
マサラティはダルエスサラームの食堂よりも50円程高いが、2杯飲むことができるので、こちらの方がお得であろう。
このカフェのマサラティは、濃厚とは言えないまでも、しゃびしゃびではなく、そこそこ美味しい。
以上紹介した3店以外にもカフェはあるが、お腹がタポタポになってしまうので、カフェめぐりはこれまでとした。アルーシャでは、美味しい珈琲が飲めるカフェ廻りをお薦めする。
つづく
2018年11月05日
このアルーシャは、タンザニアの北部の一地方都市にもかかわらず、その地勢のため、重要な出来事が多くある。
例えば1964年のタンガニーカとザンジバルとの連合共和国独立宣言、1967年に初代タンザニア大統領が発表したアルーシャ宣言、ルワンダの内戦を終わらせるべくタンザニアが仲介に入った1993年のアルーシャ協定などがある。
旧市街地の新市街地寄りに、アルーシャ宣言博物館があり、ここで、アルーシャの歴史に触れたく、訪れることとした。
博物館の前のラウンドアバウトには、ユニークで一際目立つモニュメントが立っており、その下では庭園管理の作業員が働いていた。
場所が少しわかりづらいゲートを潜ると、チケットオフィスがすぐのところにあり、外国人は600円、居住者は120円とある。
係員へパスポートのレジデンススタンプを見せ120円を支払い、訪問者を記入するノートにはタンザニアンと記入させられた。
前に並んでいた白人2人とともに、その係員の女性に博物館の入口へ案内された。そこには、小ぶりのギザギザ屋根の建物があった。
まずは、係員の女性に撮影許可を得て、そして室内に入った。
室内には、写真と展示物があり、ゆっくり見ても1時間強くらいであった。
白人2人とすでにいた1人の男性は、熱心に展示物の記事を読んでおり、彼らの邪魔にならないように、展示物をまわった。
小規模な博物館ではあるが、興味深いものがいくつかり、タンザニアに関心がある人にとっては、なかなかよい場所であろう。
例えば、この自由のトーチ。
これは1979年に、この博物が獲得したもので、そのトーチの歴史は以下を読んでください。
その他、パトロールするために使用したのが、なんとシマウマであること。
この写真から、シマウマに、しっかりと鐙がついているのが分かる。
展示物を見終え、建物から出ると、敷地内には多くのタンザニア人がおり、木陰でくつろいでいた。その彼らに混じって、木陰のベンチに座り、しばらく博物館を眺めていた。
まるで高原の空気のような、爽やかさに包まれているのが感じられた。
つづく